第10話 ヒッチハイク

 何でそんな事をしたのか今だ私自身解らない、マレーシアで吸った阿片がまだ効いていたんだろう、イスタンブールで荷物を盗られた私はジーンズに半袖という格好であった、寒いのに衣類も買わない、暖かい南に行けばいいものをなんと私は北欧を目指していた、その日私はみぞれの中、ドイツのアウトバーンでヒッチハイクを試みていた、この季節に半袖でみぞれの中に立っている私に止まる車はなかった、寒い、そのうち合図もしないのに大型のオートバイが止まった、乗せてやると言う、ただでさえ寒いのに、私は躊躇した、早く乗れ、促されて私は後ろへ跨った。
 すぐに猛烈な寒さと後悔に包まれた、乗らなければよかった、必死にバイクのフレームを握り、彼の背中に隠れるように身をちじこめる、涙がボロボロ出るので目も開いていられない、腕やフレームを握っている手にはとうに感覚はない、どのくらい走ったのだろうか、パーキングに止まると、コーヒーを飲もうという、が、私はバイクに跨ったまま動けない、頭ではこれから何をすべきか解っている、手足にもその命令を出している、しかし全くその命令が反映される気配もない、手先足先には感覚はなくフレームを握っているという事も目で確かめなければ判らない程であった。
 もたもたしている私に彼は怪訝な顔をしている、私は手が、手が、とフレームに張り付いている自分の手に顎をしゃくった、すぐに彼は了解し、私の指を一本づつひろげてくれた、コーヒーカップも握れず両手首で挟むように飲んだ。

 ここまでの記憶しかない、この後どうしたんだろうバイクに乗ったのだろうか。

 ドイツからデンマークのコペンハーゲンまでは列車を使っている(左の切符)、ハンブルグの北から対岸のデンマークまで列車ごとフェリーで運ばれた、その列車でアメリカ人の旅行者と同じコンパーメントになった、彼女とは大して話もしなかった様に思う、2人きりだったのに、フェリーが動き始めると、彼女はリュックからパンと缶詰を出し、私に、食べてもいいよ、デッキに出て来るからとコンパートメントを出て行った、缶詰にはなんだらペーストと書いてあるが、私には何だか判らなかった、開けてみるといい匂いだ、パンに塗って食べる、うまい、瞬く間に缶詰は空になってしまった、みんな食べちゃったの、帰って来た彼女は呆れたような、怒ったような顔をしていた。


 色々な乗り物をヒッチハイクした、車、バイク、自転車、船、インドじゃ牛車ってのもあった、しかし私にはヒッチハイクというのは向いていない、やはり乗せてもらうからにはそれなりの作法があると思う、私の様に語学力のない者はどうしても沈黙という時間が長くなる、乗る方も、乗せる方も一人ということになると、社交性のある無しが大きくものをいう、私にはそれが欠けているので長時間となると非常に苦痛なものとなる、もっとも大部分が物価の安い所にいたのでヒッチハイクの必要性は少なかったのが助かった。


 本人から聞いた話だが、彼はアメリカから帰国するのに港をウロウロして日本行きの船を捜した、韓国、日本と回る貨物船に乗せてもらえる事になったが、韓国まで行ったところで日本から載せる貨物がキャンセル、またアメリカにもどってしまったという、なぜ韓国で降りなかったの、と訊いたら、せっかく日本までタダで帰れるはずだったのに、悔しいだろ、との答えだった、その後どうやってアメリカから出たのかは訊かなかった。


 ヨーロッパではほとんどがYH(ユースホステル)を使った、とりわけドイツのユースはきびしかった、朝、何時だったか忘れたが「グーテンモーゲン 々」と無理やり起こされる、その後夕方まで入れない、この格好だから、頼むからいらせてくれと言っても、お前は何しにドイツへ来た、観光、観光ってのは見て歩くもんだ、で追い出された。 ドイツはYH発祥の地(?)と聞いた。

     

ドイツ、オーストリアの電車、バスの切符

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