第15話 天国

 アフガンのカブールからカイバル峠を越えパキスタンへ、そしてインドへ入国したのは12月21日であった。あんなに嫌だったインドも、何ヶ月かの中近東の旅行を経験した私には苦にならなかった、何ヶ月か先のシンガポール行きの船を予約するとインド国内を観光して周った、前とは違い連れもいたし、慣れてもきていたので、インド人の「好奇の目」にも平気だった、どこかでネパールへ行って来た人に会い、さんざネパールの良さを聞かされ連れ共々、行くっきゃないということになった、国境まで列車で行き、そこからバスで首都カトマンズへ、途中の道は今まで経験した事がないほどのスリリングなものであった、片側は切り立った断崖、反対側は遥か下を川が流れるような所をバスは走る、窓の外が山側になったり谷側になったりする、谷側になった時、外を見ると怖い、顔を出さないと地面が見えないような所を走っている、ガードレールも何もない、落ちてもあまり痛い思いはしないな、確実に死ぬだろうからと思った、帰りのバスではもう少しでそうなりかけた、下り坂でスピードが速くなり、カーブではタイヤがキィキィ音をたてる、運転手が何か叫んだ、車内が騒然となった、が、私には何が起きたのか解らない、バスは崖を擦りながら止まった、車内では歓声があがった、全て一瞬の出来事だった、あんな危ない運転をしたあげく崖にぶつけて何喜んでいるんだろう、ゆっくり説明を聞いてヒヤリとした、ブレーキが利かずやむなく崖にぶつけて止めたとの事だった。

 無事カトマンズ着、そこで同じように到着しホテルを探している日本人に会った、国境でネパール人だかチベット人に会い、彼と一週間かけてここまで歩いて来たと言う、私は来た道筋を思い出しながら、さぞかし大変だったろうなと思った、下の写真にある岡野氏である。
 ホテルを探しているうち、部屋を貸すというのにぶつかった、1ヶ月5ドルだという、1人5ドルは安い、と我々は思ったが、なんとなく話が噛み合わない、英語、日本語、ヒンズー語+身振り手振りでの話し合いの結果、一人5ドルではなく一部屋5ドルと解った。全員一致で賃貸契約をしたのはゆうまでもない。

 我々の借りた部屋には何もなかった、6畳ぐらいだったろうか、トイレも家具もない土間で、窓がひとつあるだけであった、夜はその土間へゴロリとなれば寝室となり、あぐらをかけば居間に、食事を作る時には台所、食堂になるという考えつくされた機能的な作りになっていた。

 そこで私が植村さんから買った石油だったかガソリンだったかのストーブ(写真「ニューデリーのYH」の中で私の足元にある)で自炊をした。何を作ったか覚えていないが、カリフラワーが安かったので、炒めたり、煮たりしたのを覚えている、ダヒ(ヨーグルト)もよく食べた、素焼きの皿で売っているのを買って食べる、そこへ牛乳を入れておくとヨーグルトがまた出来る。皿は洗わずに何度でも使う、ヨーグルト菌は生きている、ばい菌も生きている。

 中近東、インドを通って来た人にとってネパールの食べ物はいい、日本人に合う、物価も安い、ガンジャ(大麻)、ハシシ(大麻樹脂)も吸い放題、それまで神経をピリピリさせての毎日だったのがウソのような開放感、まさしく私にとっての天国だった。

 植村さんとはアフガンかパキスタンで会った、登山靴を履きそれなりの格好をしていて我々とは違うなと思った、彼はネパールからヨーロッパへ帰る(?)と言っていたように思う、顔は忘れてしまっていたが、後年エベレスト登頂の記事を見て、アッ、あの時の人だと思い出した、もしかしたら植村違いかもしれないが。
 故鈴木紀夫氏(小野田さん発見の)とは72年にアフガンであった、お互い名前は聞いていたが会うのは初めてだった、その後、彼とは何度か顔を会わした、彼が日本へ帰る途中バンコクで会ったのが最後になってしまった、その後、バンコクで会う約束をしたが、来る途中のルバング島で小野田さん発見という事があり会う事が出来なかった。


 この頃の記憶は曖昧になっている、記録も見つからないので定かではない,日本寺での2枚の写真を除いて68年12月末か69年1月である事は間違いない、タージマハールで正月を迎えようと行ったのはこの時なのだろうか?


インド
私 と 江村氏


タージマハール


カトマンズ


ニューデリーのYH


モンキィ・テンプル
カトマンズ

私 ・ 岡野氏 ・ 和田氏


72年 インドの日本寺
日本山妙法寺
随分お世話になり、ありがとうございました。

< 故鈴木紀夫氏と

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